現代では世界中でさまざまな人に実践されているヨガですが、始めてみると単なるエクササイズではないことに気付く方もいらっしゃるのではないでしょうか。
美容や健康によいことは間違いないのですが、元々ヨガは、一切のものから自由になるために行う一連の修行です。
ヨガの教科書と言われているヨーガスートラでは、最終目的である「解脱」への道を説いています。
この記事では、ヨーガスートラに出てくる「サンヤマ」という言葉について、その定義や得られる効果、具体的な内容について解説します。
哲学というととっつきにくく感じる方もいらっしゃるとは思いますが、ヨガのレッスンをより充実したものにするため、ぜひ哲学思想についても触れていきましょう。
目次
ヨガのサンヤマとは?
一般的に現代ではヨガの根本経典とされている「ヨーガスートラ」において、編纂者のパタンジャリが新しく定義づけをした言葉が「サンヤマ(saṃyama)」です。
saṃは「いっしょに」そしてyamは「制御する」という意味があり、通常は「厳しい制御、苦行、宗教的献身」などと訳されます。
ヨーガスートラにおいては、ヨガ八支則の最後の三支則である「ダーラナー(集中)」、「ディヤーナー(瞑想)」、そして「サマーディ(三昧)」を総称してサンヤマと呼びました。
定義している箇所は、ヨーガスートラの第3章4節。表記は「trayamekatra saṃyamaḥ」、直訳は「3つを合わせひとつの対象に行うのがサンヤマである」です。
註解者ヴィヤーサによる解説では「ひとりのヨガ修行者が、ひとつの場所で行う今の修行において、三支則を一緒に行うこと、そしてその対象は同一のものであること」となっています。
つまり、ヨガにおける深い瞑想状態の条件と考えられるでしょうか。
参考:En Yoga YOKOHAMA毎日スートラ「サンヤマ(総制)とは?|ヨーガスートラ3章4節」
サンヤマによって得られる効果
サンヤマによって得られる効果については、ヨーガスートラの第3章5節に記載があります。
「tajjayātprajñālokaḥ=サンヤマをものとして知恵が光り輝く」
prajñā(プラジュニャー)とは、「知」「真知」「智慧」「英知」などの意味を持ちます。ニュアンスとしては、学習から得る知識ではなく「経験からもたらさせる決定的な教訓」です。
サンヤマの修行に励み、一定の段階を乗り越えた者だけが得られるのは「知恵という光」なのですね。
そのためサンヤマは、特別な集中的修行と言えるかもしれません。
サンヤマの実践への示唆
第3章6節、7節、8節には、サンヤマのための内的な練習と外的な練習について記載されています。
サンヤマはひとつずつ段階を経て体得するもので、一段階でも飛ばしてしまうと、最終目標のレベルには到達できません。
まずは優しいものから攻略し、段階をひとつも飛ばすことなく上がっていきなさいという内容です。
サンヤマに至った人は、すでにヨガ八支則の前半5部門の体の領域は終えて、対象への一点集中をしながら自分の精神活動を抑制する修行のレベルに来ています。
サンヤマによって、自分の精神の制御を目指しましょう。
サンヤマは三支則の一連の流れ
サンヤマはヨーガスートラの八支則の中の、最後の3つを合わせた呼び方のことです。
ここで三支則とはどのようなものかを、再度確認しておきましょう。
- ダーラナ(集中)
- ディヤーナ(瞑想)
- サマーディ(サマディ 三昧)
ダーラナ(集中)
ダーラナは、瞑想の対象物の一点に意識を向け、完全に集中している状態です。
意識が完全にその対象に向いていると、対象以外のいかなる雑念が湧いてこなくなります。とても高い集中状態を指していますよ。
瞑想の対象は何でも構いませんが、神や音、風、聖者、花といった自分が好むものであると、集中しやすいと言われています。
たとえば対象物を花とした場合、「これは花だ」や「オレンジ色をしている」などといった事実の認識がある状態が、ダーラナです。
ここに「わたしの兄がこの花を好きだ」という思考が入ってしまうと、それは雑念となってしまいます。
雑念が湧くということは、集中力が途切れたということですね。
ディヤーナ(瞑想)
ディヤーナは、ダーラナがさらに深まり、対象への集中が途切れなくなった状態です。
ダーラナの瞑想を続けることで自然に到達できるとされています。
ディヤーナ状態のとき、対象への意識がより深まり自分の意識は完全に対象の中に入ってしまうため、他の思考はいっさい生まれなくなります。
サマーディ(サマディ 三昧)
サマーディは、ディヤーナが深まることによって瞑想をしている本人の自我意識「わたし」が消滅してしまった状態のことです。
たとえば対象物を「光」とした場合、ダーラナの段階では「わたしが光のイメージをしている」という認識です。
しかし集中が深まるに従って「光だけに意識が集中する」状態になり、やがて「わたし」という自我の認識がなくなっていきます。
自我が消滅することによって人が持つ煩悩や執着心が消えていくため、人は苦しみから解放されると言われています。
八支則の最後の段階「サマーディ」にも種類がある
八支則の最後にあるためサマーディ(三昧)がゴールだと思われがちですが、実は1回サマーディに到達しただけではヨガの成功とは言えません。
繰り返しサマーディに到達できるよう、修行を続けなければならないのです。
そして、サマーディには「有種子サマーディ」と「無種子サマーディ」の2種類があります。
以下で簡単に説明しましょう。
【有種子サマーディ】
瞑想によって自意識が消えていても、思考は完全に止まっていない状態のこと。
【無種子サマーディ】
わずかに残った思考の働きも消滅し、どのような考えも完全になくなった状態のこと。
繰り返しサマーディを迎えることで、無種子サマーディへ到達できるように修行を重ねていきます。
▼以下の記事で八支則について解説しています。
サマーディの目的を見失わないことが大切
ヨーガスートラには、瞑想が深まり対象そのものの完全なる理解が生まれたとき、それに付随するように超常の力が発現することもあると書かれています。
自分の心が生み出したあらゆる制限や終着などから解放される過程では、最高に気持ちが良い精神状態を経験します。
そのため人によっては、その快楽が目的となってしまうケースがあるのです。
しかし、瞑想の中での至福体験に「執着」してしまうことは、結局解脱から遠ざかることになり、ヨガの目的を果たせません。
ヨガの目的や、なぜサマーディ(三昧)を目指すのかという答えは「解脱によって心が真から自由になることである」と理解しましょう。
ヨガやサマーディへの執着さえなくなったときに、本当にすべてのものから自由になれるのです。
サンヤマは特別な集中的修行
サンヤマは八支則の後半部分にあたる、3つの精神的制御の修行を指す言葉です。
前段階にある5支則で体や考え方を整え、いよいよ自分の心を制御する段階に入るとき、サンヤマがスタートします。
サンヤマはいうなれば、高次の集中を得るための特別な修行です。ぜひ、八支則に繰り返し取り組んでみましょう。
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